コース設計の原理
設計家名鑑
設計家ごとの思想・経歴・代表作を体系化しています。設計意図の断定は本人の発言・著作の裏付けがある場合に限ります。
C.H.アリソン(チャールズ・ヒュー・アリソン)
イギリスの名匠ハリー・コルトの事務所(コルト・アンド・アリソン、後にコルト・マッケンジー・アンド・アリソン)でパートナーを務めた設計家。1930〜31年の来日で廣野ゴルフ倶楽部を手がけ、戦略性の高い「攻める者には報酬、逃げる者には罰」というバンカー配置の思想を日本にもたらした。深いポットバンカーは今も「アリソンバンカー」と呼ばれる。
赤星四郎
実業家・赤星弥之助の四男。弟の赤星六郎とともにアマチュア時代から活躍し、C.H.アリソンの来日に影響を受けてコース設計に進んだ。代表作は函館ゴルフ倶楽部(1936年、単独設計としては最初とされる)、箱根カントリー倶楽部、御殿場ゴルフ倶楽部。霞ヶ関カンツリー倶楽部(東コース)にも関わったが、中心的な設計者は藤田欽哉とされる。
赤星六郎
赤星四郎の実弟。1927年の第1回日本オープンゴルフ選手権で優勝(日本オープン史上唯一のアマチュア優勝者)。C.H.アリソンの来日に影響を受け、相模カンツリー倶楽部・我孫子ゴルフ倶楽部を設計した。42歳で死去。
浅見緑蔵
日本オープン・日本プロ最年少優勝記録(当時)を持つ名プロゴルファー。日本プロゴルフ協会第2代理事長。コース設計家としては、自ら設立した浅見カントリー倶楽部の設計に関わったことが確認できる程度で、代表作と呼べる設計実績は限定的とされる。
和泉一介
東京大学造園科出身とされ、井上誠一のもとでコース設計を学んだ。袖ヶ浦カンツリークラブ袖ヶ浦コース、飯能ゴルフクラブの設計者としてWikipediaでも明記されている。生没年は確認できなかった。
井上誠一
「東の井上誠一、西の上田治」と並び称される、日本を代表するゴルフコース設計家。C.H.アリソンの通訳・助手を務めた経験から設計の道に進み、生涯で約40コースを手がけた。代表作は霞ヶ関カンツリー倶楽部(西コース)、大洗ゴルフ倶楽部、龍ケ崎カントリー倶楽部など。
上田治
「東の井上誠一、西の上田治」「剛の上田」と称される関西を代表するコース設計家。廣野ゴルフ倶楽部の造成に助手として関わったのちコース設計の道に進み、生涯で約56コースを手がけたとされる。
加藤俊輔
日本ゴルフコース設計者協会(JSGCA)の設立に関わり初代理事長を務めた設計家。「自然から得たものは自然に還す」を信条とし、太平洋クラブ御殿場コースなど70〜80以上のコースを手がけたとされる。
川田太三
アマチュアゴルファー・ゴルフ解説者として活躍し、1990年に日本人として初めて全英ゴルフ協会(R&A)会員となり全英オープンの競技委員を務めた。成田ゴルフ倶楽部などの設計・改修にも携わった。2026年7月25日死去、82歳。
小寺酉二
慶應義塾大学卒業後にプリンストン大学へ留学し、赤星六郎の指導を受けてゴルフを覚えた学生ゴルフの第一人者。戦後は日本ゴルフ協会常務理事としてゴルフ復興に尽力する一方、狭山ゴルフ・クラブなど「ワングリーン主義」のコースを設計した。
小林光昭
池を活かした戦略的な景観設計を得意とし「水の小林」と呼ばれた設計家。米国人設計家との出会いを機に水景を大胆に取り入れるスタイルを確立し、三好徳行との共同設計による鳩山カントリークラブが代表作。没年は確認できなかった。
富澤誠造
約四半世紀にわたりグリーンキーパーを務めた後、41歳で設計家に転身。生涯で100を超えるコースを手がけ、千葉県内で最多設計者の一人とされる。「Fair and Sure」をモットーに、管理のしやすさを重視した砲台グリーンとガードバンカーの組み合わせを得意とした。生没年は確認できなかった。
安田幸吉
関東ゴルフ界のパイオニアプロの一人で、1957年に組織された日本プロゴルフ協会の初代理事長。1991年にはプロゴルフ界で初めて叙勲された。「コース造りは庭造り」を信条に、50を超えるコースの設計・監修・改造に携わった。
ロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニア
20世紀を代表する設計家ロバート・トレント・ジョーンズ・シニアの長男。1970年代初頭に独立し、世界45カ国以上で280以上のコースを手がけた。2015年全米オープン開催のチェンバーズ・ベイが代表作の一つ。日本ではゴールデンバレーゴルフ倶楽部(西脇市)を設計し、日本オープンの開催地にもなっている。
ジャック・ニクラウス
メジャー18勝という金字塔を打ち立てた史上最高のプレーヤーの一人。引退後は自身の設計事務所(ニクラウス・デザイン)を率い、世界有数の設計家としても知られる。デズモンド・ミュアヘッドと共同設計したミュアフィールド・ビレッジ・ゴルフクラブ(自身のホームコースであり、主催するメモリアル・トーナメントの開催地)が代表作の一つ。
デズモンド・ミュアヘッド
英国生まれ・アメリカで活動した設計家。ジャック・ニクラウスと共同設計したミュアフィールド・ビレッジ・ゴルフクラブで知られる。キャリア後期は人魚の尾やドラゴンといった象徴的モチーフを地形やバンカー形状に取り入れる「シンボリック・デザイン」を志向し、日本ではニューセントアンドリュースゴルフクラブジャパン(栃木県)を手がけたことで知られる。
ピート・ダイ
「人生は公平ではない。ならばなぜ公平なコースを作らねばならないのか」という言葉で知られる設計家。1963年の妻アリス・ダイとのスコットランド旅行を契機に、鉄道枕木の土留めやポットバンカーなどリンクス的要素を取り入れた、視覚的な威圧感とリスク・リワードを強調する独自のスタイルを確立した。TPCソーグラス(アイランドグリーンの17番)、ホエールング・ストレイツ等が代表作。
オールド・トム・モリス(Old Tom Morris)
セント・アンドリュースのグリーンキーパー(Keeper of the Green)兼プロゴルファーとして19世紀後半のゴルフコース設計の礎を築いた人物。オールドコースの1番・18番グリーンを整備し、現在の18ホール構成・複数ホール共有のダブルグリーンの原型を作ったとされる。
ジャック・ネヴィル(Jack Neville)
設計経験のないアマチュアゴルファーでありながら、ダグラス・グラントと共にペブルビーチ・ゴルフリンクスを設計し、1919年の開場に導いた人物。
ダグラス・グラント(Douglas Grant)
ジャック・ネヴィルと共にペブルビーチ・ゴルフリンクスを設計したアマチュアゴルファー。
アリスター・マッケンジー(Alister MacKenzie)
サイプレス・ポイント、ロイヤル・メルボルンなどを手がけた著名設計家で、ボビー・ジョーンズと共同でオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブを設計した。戦略性・幅・複数の攻め方の選択肢を重視する設計思想で知られる。
ボビー・ジョーンズ(Bobby Jones)
1930年にゴルフの年間グランドスラムを達成した伝説的アマチュアゴルファー。クリフォード・ロバーツと共にオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブを創設し、アリスター・マッケンジーと共同でコースを設計した。マスターズ・トーナメントの創設者でもある。
ヘンリー・C・ファウンズ(Henry C. Fownes)
アメリカの実業家で、1903年に唯一手がけたゴルフコース設計としてオークモント・カントリークラブを造成したとされる。その後は息子ウィリアム・C・ファウンズ・ジュニアが40年以上にわたりバンカーの追加など改良を重ねたと伝えられている。
ドナルド・ロス(Donald Ross)
スコットランド出身とされるゴルフコース設計家。1907年にパインハースト No.2を完成させ、自ら「これまで手がけた中で最も公平なチャンピオンシップゴルフのテスト」と評したと伝えられている。ドーム状に盛り上がったグリーン形状を特徴とする設計で知られる。
大谷光明
1928年(昭和3年)、川奈ホテルゴルフコース大島コースを設計したと伝えられる人物。同コースはC.H.アリソン設計の富士コース(1936年開場)よりも古い、川奈の2つの18ホールコースのうち先に開場した方にあたる。
発知朗(氏名の読み方は未確定)
井上誠一の弟子とされる人物。宍戸ヒルズカントリークラブの実際の設計を井上誠一から依頼されたと伝えられるが、独立した経歴資料は確認できず、氏名の読み方も含めて詳細は不明。
アレックス・ラッセル(Alex Russell)
オーストラリアの牧場経営者・アマチュアゴルファーで、1924年全豪オープン優勝者。アリスター・マッケンジーの基本設計をもとに、ロイヤル・メルボルン・ゴルフクラブ ウエストコースの建設を現地で監督したことで知られる設計家。
ジョージ・クランプ(George Crump)
フィラデルフィアのホテル経営者・アマチュアゴルファー。1913年にパインバレー・ゴルフクラブを設立し、H.S.コルトら当代一流の設計家の協力を得ながら自ら設計を主導した。1918年、コース完成を待たずに死去。
H.S.コルト(Harry Shapland Colt)
20世紀初頭のゴルフコース設計界を牽引したイギリスの設計家。C.H.アリソンが長年パートナーを務めた事務所の創設者で、ジョージ・クランプとともにパインバレー・ゴルフクラブを共同設計したほか、ウェントワース・クラブ、サニングデール、ロイヤル・ポートラッシュなど6大陸300以上のコースの設計・改修に関わったとされる。